悪口の悪口

ここに記すことは、愚痴。そして、悪口。

離れることを推奨する。

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実際に生じた事象

配信内で悪口を聞いて、私の感情がかき乱され、何度か途中で抜けるつもりのないところで抜けた。キレているときもあった。

そういうことが複数回あって、苦しくなっている。配信視聴に嫌気がさしている。

旅行の帰路は、楽しいとは言い難いものになった。

そして、まだ、この流れは脱しきれていない。

変わればいいなという意味もあって書く。が、期待すべきではない。まあどうせしてしまうだろうが。

それも含めて、自己嫌悪が激しい。

思考回路

私の、好みの話、である。善悪の話ではない。

悪口が嫌い

私は悪口が嫌いだ。

その内容が、虚偽か真実かにかかわらず、明確に嫌いである。つまりは、悪人に対する悪口も嫌いだ。悪人の悪を語る時点で、私は話者に嫌悪感を覚えてしまう。話し手が真に被害者であったとしても、必要のないであろう場面で、それの被害を語ることを私は嫌悪している。

大概、それは当人のいないところで行われる。それゆえ事実が湾曲されて伝わりやすいが、もし、仮に事実をそのまま伝えるのであれど、その行き先が非難であるならば私の感覚の捉え方はあまり変わらない。

それを赤の他人がやっているのであれば、どうでもいい。一時心は乱れることはあるだろうが、禍根も残らないであろう。まあ、その人に積極的に近づこうとはしなくなるだろうが、それだけで支障はない。

一方で、好きなひとが、大切な人が、そうしたとき、私は明確に、感情を乱し、憤りを覚える。

違いはわかりやすい。私が期待してしまうかどうかである。

赤の他人には、何も期待していない。だが、好きな人や、大切な人には、期待してしまうのである。

だが、それでも、結局、私以外の人のことである。その口を塞ぐ権利はない。

故に、何度も私は私に言い聞かせなければいけない。他人に期待してはいけない。が、そういうわけにもいかないのだ。

誰もかもを、他人だからといって、全く期待しないというのは、できればそれはそれで楽で味気なく平坦な日々を送れるだろうが、少なくとも私の感情はそのように思いどおりになるものではない。

だから、この文章に意味はないのだ。ただの愚痴なのだ。単なる悪口に過ぎない。

私は、自分の言葉で自らを刺したことになる。

嫌悪、苛立ちの対象は私自身を含む。

今ここでやっていることを、その方々は枠でやっているに過ぎない。

なんなら、配信内のほうが、残らない、見る人は限られている。このブログは残る上には全公開。私のほうが悪質だ。

ああ、なんて、愚かなんだろう。期待してしまう苛立ち、そして、ここに吐き出してしまった嫌悪。

もうやだ

悪口を嫌う理屈

私は、悪口はいくらでも聞くことがあるが、悪人に会ったことがない。

誰も大差ない。だれもが悪くもあり、善くもある、と信じている。

それ故、その人のうまくいかない一面を突いて刺す、悪口というものが嫌いだ。

発す言葉も、ときには書いて送る言葉さえも、私達は理性で制御しきれるわけではない。

思いやりをもっていても、それを常に働かせられるわけではない。

行動も同じく、何もかも、私達は思い通りにできない。

みんな、苦しんで、楽しんで、それなりに、たくさんのものを抱えて生きている。

それが、事実であるかはわからないが、私は信じている。

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