祖父とのお別れ

祖父が危篤だと知らせを受けてから、お葬式の翌日までの間に書いたもの

目次

忘れていること、忘れていないこと

私は祖父について心の中にどんなものを持っているだろう。思い返そうとする。

幼き頃の記憶というのは曖昧になってしまっている。きっと、忘れていることがある、これだけではない、もっとたくさんのものをもらってきたはず。人は忘れるものだと思い出し、少し無力を感じる。

あったものがなかったことになる訳ではない、受け取ったものが消え失せたわけではない。が、憶えていないことが多くあるだろうことにどうしようもない感情が残る。

だけれども、しっかりと憶えていることもある。それらをこれから忘れないとも限らない。この機会に断片を少し置いておきたい。

母方の祖父、あなたは祖父母たちの中では私とのコミュニケーションが1番少なかった人、にはなってしまっただろう。

といっても、比較してしまうと少なかったというだだけで、大切にしてもらったし、思い出はたくさんあるし、大好きだった。

祖父はいつも車椅子に座っているか、ベッドで寝ているか、立って歩いているというのは見たことがない。私が生まれる少し前に事故で足が不自由になったそうだ。

アクティブな人だった。車椅子もスポーツ用のもの。車椅子で卓球をしていたそうだ。プレーしているのを見た記憶はないが、トロフィーやらメダルやらがいくつも飾られていた。まあ、車椅子になる前のも混じっていたのかもしれないが。

だから、車椅子の身ながら、柔らかいボールを投げてもらって、幼き頃の私がバットを振って打つということもあったと記憶している。祖母が投げてくれている時もよくあった。そういえばたくさんバットを振っていた気がするが、あんまりキャッチボールをした記憶がない。なんでなんだろう。私が好きじゃなかったのかな?

あそこは、あの時間は、本当に楽しかった。ややこしく考えを拗らせてしまうような今の自分が、そのころの無垢であったろう私の感覚を言葉にするのもおこがましいのではないかと感じるほどに、幼き頃、祖父、祖母、叔父、叔母、いとこ、父、母、弟、私、みんなで過ごしていた母の実家は、心から楽しい空間だった。

今はいろいろと事情があり手伝うことはなくなったけれども、お米づくりに触れたというのもあそこでの大切な体験のひとつだった。祖父は車椅子故に田んぼに出向くということはなかった。けれど、種まきのときなんかは一緒に機械のまわりで苗箱を置いたり、それに新聞紙引いたりといろいろとやっていた。

それと、祖父は油彩画をやっていた。たくさんの絵が残っている。いつから始めたのかはよく知らない。私はごく当たり前の事として絵筆を走らす祖父を見ていた。

そういえば結局私は油彩画はここまでやったことない。でも、その祖父の背中は明らかに、私が幼き頃、絵を描くことに、図鑑のイラストを写したりなぞったりすることに影響を与えていた。そして、それがなければ、今私が、まともに学んでなど居ない割には絵がかけて、イラストを自分で描いたりする、なんてこともなかったろう。自分の一部に祖父が宿っている。あたりまえのことなんだけれど嬉しい。

私の触れ合ってきた祖父母世代の方々の中では、一番カッコいい人だった。多才という言い方ができるが、それらは自分で選んで踏み出さねば芽生えようもない。そこを踏み出していって、あなたはあなたの世界を楽しんでいたんじゃないかな、と勝手ながら思う。

なんて書いたけど、思い返すと父方の祖父もいろいろとカッコいいところ、すごいところあったよなぁ、なんて思い出してしまう。まあ、ここでは触れずに、またの機会にしようとは思うけど。

病院へ

祖父は以前から入院していた。その容態が悪化し、心づもりをしてくださいとのしらせが来た。私たちは病院へ急いだ。

病院へは慣れないタクシーで行った。運転はいつもの父のものより穏やかで丁寧なはずなのに、気が動転していたり、タクシーを捕まえるのにバタバタしてつかれていたのか、少し酔ってしまい気分が悪くなっていた。

病室へ急いだ。

祖父は闘っていた、などと私が言っていいのかわからないが、少なくとも私にはそう見えた。

痛ましく感じられるほどに激しく膨らんでは萎みを繰り返す胸部。

時折鳴り響く、耳障りではないが、意味が痛みを伴う警告音らしきもの。多分、血中酸素濃度と心拍数が一定の値を超えたり下回ったりすると鳴るようだ。 

その度に、声をかけたり、軽く肩をさすったりする。あたたかい。

会話をすることはできない。

眼は虚ろに彷徨うようながらも、時折、私を捉えてくれているようにも思えた。

いつのまにやら、私の手で包めてしまうようになっていた、肩と比べるとずいぶんと冷たい手。包んでいると時折、ピクっと血が通うのが感じられた。

私はただ、傍に居るしかできない。だが、それが有難い。大切な時間である。噛み締める。

これをここまで書いているのも祖父のすぐ隣に居てのこと。普段ではわかっていても流されてしまう。命について真剣に考え、想い、向き合う時間。それらをまた私は忘れるだろうから、こうして置いておくことに意味はあると思う。視界の端に祖父をとらえながらスマホに文字を打ってなどいていいのかとも思ってしまうが、私は真剣だ。

流れる時間

何時間もいれば疲れてはしまう。警告音にも慣れていく。

間の悪いことに昨日一昨日の睡眠時間は併せて6時間あったかどうか。やらかしたなとは思ったがどうすることができるわけでもない。

この後も考えると本当は無理せずに休んでいるべき、うとうとしているべきという考えもあった。が、今考えないで、今触れようとしないで、今気張らないで、いつなにをしようというのかと思い、崩れない限りの無理をする。

今この時も、祖父の心拍数は3桁を下ることはまったくない。ずっと、ずっと苦しんでいる、闘っている。眠気や疲れは募れど、今をおろそかにしたくなかった。

お昼前から、夕方に陽が沈んでしまう頃までのほとんどを、傍で過ごした。これほどの時間をともに過ごしたのはいつ以来の事だったのだろうか。それどころか、もしかしたら、これまででいちばん一緒に居た日だったと言えてしまうのか。

最期

いつ息絶えるかわからなくもあるが、すぐに何かが起きるともいえない。それが数日続くこともありうるという。

暗くなり、私たちは祖父と、祖父のそばで泊まるかも知れないという叔父を残し、病院を後にした。

訃報はその約1時間後、私たちが普段より遅めの食事をしている時に届いた。

私は本当の最期を看取ることはできなかった。だが、叔父はそばに居ることができたらしい。よかった。

みんなが帰ってしまったから、一緒に帰りたくななったのかもしれない。

今日はずっと一日中苦しかったろうが、昨日にはまだ少し言葉を交わせていたという。苦悶であろう時間が長引きすぎず逝けたのはよくもあったのではないかと思う。

少しずつショックは頭を占めていった。もともと高齢ではあったし、いつかというのが刻々と近づいているのはわかっていた。1日中そばにいて、考え、喪うことは覚悟していた。それ自体は受け入れられている。

だが、どうしても近頃の己の軽率さ、不甲斐なさに対して、諦め混じりの怒りと落胆のようなものが燻っていた。

正直なところ疲れ果てていたのもあっただろう。明日からもある。とりあえず早く眠ることにしよう。

手伝い

手伝いで母の実家へ赴いた。祖父は安らかに眠っていた。

おじいちゃん、おつかれさま。よくがんばったね。ありがとう。本当にありがとう。

線香番

巻き線香がなかったため、私は主に線香の守りをしていた。

その他の雑用もやったが、さほど忙しくなかったから、わりと長く、冷たくなった祖父のそばに居た。

線香から煙が立ち上る。時々、燃えて灰色になったところが傾き、やがてぽきりと落ちる。それを繰り返し、ゆっくりと短くなってゆく。 静かに時間が流れてゆく。

線香を焚いてから尽きるまでの間、ずっとそれを見つめていたなんてことも初めてだった。

あらためて、布を脇によけて改めて祖父の顔をじっと見つめる。安らか、という以上に、無、とでも言ったらいいのか。どうしようもなく、こわいと表現するのが近いように心が頭が動いた。人はいつか止まる時がくるということを、私もいつか、私の知る皆も全て例外なく、いつか、こうして止まる時がくることを、想った。

思っていた以上には、香煙は見ていて飽きないが、それでもやはり続くと手持ち無沙汰感が強くなる。

そこで、私は祖父の隣で幾らか歌を口ずさんだ。大切な歌を、大好きな歌を。礼節だかなんだかとしてはあんまりなのかもしれないが、そんなことより、もうじきにその形ともお別れになる祖父へ、届くことはなくとも、何か聴かせたいと思って、想いを乗せ、歌っていた。私の声という空気の振動がが祖父の体という物質に届くことももうじきに二度となくなってしまうのだら。

私はそれを聴いたことはなかったと思うが、母が言うには祖父はわりと歌う方だったらしい。そういえば祖父と音楽の話をしたことはなかった。どんな曲が好きなのかを知らない。何も話せぬままにお別れになったことを悲しく思いもしたが、結局のところすべてをを語らい切るなど、伝え切るなど、どうしようもなくわたしたちはできないか。親でさえ結局は他人である。だからこそ、思いがけないことがあって、悲しみ、喜びをわかちあえるんだろう。

写真

お葬式の時に使うからということで、これまでの祖父の写真が十数枚ほど必用らしく、その当をつけるのを手伝った。

古いアルバムを開く。写真を床に広げる。皆、若い。思い出話に花が咲く。

私の知らなかった祖父がたくさん居た。そしてまた、私の知っている祖父もいた。同様に、祖母、叔父、叔母、母、父、皆若い写真がそれなりにあった。私も居た。弟も居た。いとこも居た。幼かった。

そういえば、と思った。私も幼い頃の写真はそれなりにある。父と母がたくさん撮ってくれた。だけれど、いつからかそういってカメラに収めるということも最近はずいぶんと減った。明確に自分が写真に写ること避けている。また家族を撮ることも少ない。人物写真がシンプルに苦手だ。だが、もう少し撮るようにしたほうがいい、心がけようと思った。

心を打つ景色はたしかに想い出になる。だが、私でなくても誰しもが切り取りようがあるのだ。それに対して、今しかない私たちを切り取れるのは私たちだけなんだ、という当たり前のことに今まで気づけないできた。

お通夜

お通夜は忙しさのうちに過ぎていった。ひとり静かにいた時があまりなかった。それもまた、こういった儀式の意義なのだろう。

親戚の方々

こうした場でなければ会わない方ばかりだった。

昔は顔を合わせる機会ももっと少し多かった。幼い頃に遊んで貰った記憶が朧げに残っている。

皆様、当たり前だが歳を取られた。そして私も歳を取った。

小さいころは、父方の親戚なのか母方の親戚なのかだとか、祖父の兄弟なのか、祖母の兄弟なのか、だとか、その方が自分にとってどういう関係の方なのか、などとややこしいことを考えなどいなかった。ただ、そこに遊んでくれる優しい誰かが居て、楽しく遊べていればそれでよく、呼び方もおっちゃんだとかおばちゃんだとか、てきとうで、なんとかなればよかった。

今となっては、皆が集まる場だということもあり、どう呼べばいいのか、どういう立場なのか、話題をどうすればいいだとか、いろいろと無い頭を回そうとする。もはや、失われた自分の純真さは、自分の外部のこととして、遠くから想い返すことしかできない。それもまた間違いなく、成長と言っていいのだろうが、なんともすこし物悲しい気もした。

受付

受付を私がするかもしれないということだったが、それは弟と従兄弟に任せることになった。年上の私からして二人が頼りないと思う時もわりとあるのだが、成し遂げてきたことが考えれば私などより二人のほうがよっぽど大人なのだと、私は幼いままにとどまっているのだと改めて思わされる。

父方の祖父のときは私が受付をやった。その時点で私はある程度の年齢ではあったのに、その頃のことをあまり憶えていなくて焦る。これまでは物心がついていて以降のことはある程度憶えておけるものだと思っていたが、そうでもないらしい。ある自らの老いを感じた。

お通夜

方丈さんのお念仏はあまり聞き慣れないもので、少し落ち着かなかった。父方と母方で宗派が異なり、私は父方の方で仏事に慣れ親しみ、母方のほうではあまり機会がなかったからだ。といっても双方ともにどう呼ぶ流派なのかを私は知らないにわかものなのだが。

また、私の普段している数珠の持ち方と、周りの方々がされている数珠の持ち方が違うようだった。

お焼香も何度なのか、どういうふうにするのかよくわからなかった。といっても別に普段もあまり意識してすることがなかったはずだから、妙に力んでしまっていたのだろう。

そんなふうに、すこしふわついた気持ちのままのお通夜だった。

お葬式・告別式

法要

お通夜に比べ、お葬式ではわりとしっかりとした心持ちで法要に臨むことができた。まあ、しっかりといっても、感情が動くわけではなく、なにも考えず頭を空っぽにしていた、というのが近い。私なりにはそれが真剣、であるわけである。それで一般論的によいのかは知らない。

お別れ

お葬式の後、祖父の写真をスライドショーにしたものが流れた。写真を選ぶ手伝いをしていたわねだから、それがあることも知っていた。どんな写真があるかもある程度想像がついた。だが、どうにも心が揺さぶられた。

少し若いながら馴染んだ祖父の顔と幼きころの従兄弟が写った写真。それでこらえきれなかった。涙が流れた。

私は、弟は、従兄弟は、幼かったことを思い出す。祖父と交わしたたくさんのやりとり。あの頃を想った。

私たちは歳を取った。従兄弟は弟は、しっかりとそれぞれの一歩を踏み出した。それを、祖父は知って、逝くことができた。他方、私は不甲斐ないままに見送ることしかでなきなかった。あまりにも申し訳なかった。悔しかった。そして、従兄弟と弟に心から感謝した。この感情を噛み締め、私は私を諦めきってはならぬと誓い直した。

そのあと、皆で棺に花をいれた。涙ながら、消え入るようなか細い声にしかできなかったが、私は最後に祖父と喋った。ありがとう、と、がんばる、と。

火葬

お葬式の後は火葬場へ。棺の窓から祖父の顔を覗く。これが最後に本物の祖父の顔を拝む機会。安らかだった。

火葬場の扉が閉まる。その瞬間が、またひとつのお別れのような気がした。

数時間後、拾骨にまた火葬場へ。骨となった祖父に会う。それは祖父でありながら、もう祖父でなくなってしまったように、感じられた。祖父というよりは仏様というか、そんなイメージが近い。畏れの対象になってしまったように感じられた。

説明をいただきながら、皆で、箸をつかい骨壺におさめた。

おさまらないものについてはここで本当にお別れ。さよなら、おじいちゃん。

もどってゆく

初七日の法要も終え、私たちは日常に戻っていった。

帰りに買い物に寄る。家族で冗談を言って笑い合う。

祖父がいなければありようもなかった今。そこから、祖父は退いていった。それでも全ては回ってゆく。私がそんなことを考えることもなくなってゆく。

もどってゆく。

断片的なメモを集めてこの形にした。

ここに書いた感情も、なにもかもまた忘れていくんだろう。それでも、記事一覧にこれが置いてあれば、それが目に入った時に私は少しやさしくなれると思う。

父方の祖父の亡骸の前で、私が誓っただろうことを、私はこれまで何度となく忘れ、ここまで彷徨ってきていた。

誰かを喪うたびに、誰かを大切にしたくなる。それをまた忘れそうになり、おろそかになる頃、きっとまた誰かを喪ったりするのだろう。

出会いあれば別れあり。繰り返しながら廻っていく人世のなかで私の人生はあって、流されてゆき、いつか終る。それまで、未熟な身ではありますが、皆さん、よろしくおねがいします。

おじいちゃんへ

ありがとう、おじいちゃん。またね。

-----本記事は以上です-----

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