2025/06/03:半月ほど前に書いたものを公開しないまま置いてあった。色々思うところがあってそのまま置いたのだろう。が、そのまま消すのはあまりにも勿体ない。ということで、遅くなったけれど公開することに。
まえがき
とある配信視聴で救われた、という跡を残したいので書く。
あと、居場所についての認識の変化、らしきものについても感覚の軌跡としては重要かもしれないので残す。
また、それ以外にも書き出したことがあったのでそれも置いておく。
救われたこと
ここまで、私が私のことをあっぴろげにしたのも珍しい、と私は思う。
別に今日(=その日)の気分は、朝方あまりよくなかったけれど、特段酷いわけじゃなかった。だから、特別なにかを求めたわけじゃなかった、つもり。
ただ、会話の動きの中で、一瞬走った鬱に流され、私は私のことを話した。
失礼な言い方かもしれないが、それに対して、皆が予想外のことをしてくれたというわけではない。知らなかった発想をくれたという類のものでもない。
だが、だが。肯定し励ましてくれた。
それらが、私には深く深く沁みた。とても嬉しかった。といった言葉で終わらせたくないほどに、本当に救われた。
ありがとう。
さびしさ
結局、さびしかったんだろう。
私は、ほとんどの配信視聴において、蚊帳の外、とまで表すると少し酷いけど、まあ極端に行ってしまえばそんなふうな気がしながら、過ごしていることが多かった。私がすっとそこから居なくなっても、誰も何も困らないよなぁ、とでも言ったらいいのかな。
それを、最初のうちは嘆いていたけれど、だんだん、諦めが勝っていって、特に何を思うでもなくなっていった。
(もちろん、誰かを責めたいわけじゃない。悪者はいない。ただ、そういう感覚があっただけ。)
だけど、今、あの枠には、私のいる意味がないわけではないのかなと感じている。私の居場所がある気がする。
そんなことを今日、認識した。してしまった。
もちろん、すべては私の感じ方ひとつなのだというのは重々承知。
そして、だから、なにがどう、という事でもない。けど、書き残したくはあるみたいだ。私は今あの枠を居場所だと感じているのだろう、ということを。
隣の芝は青い、多分本当に。
とてもまっすぐに想いを伝える方の姿勢を見て、うらやましいと感じた。それにはそれの苦労があるだろうけど、やっぱり隣の芝は青く見える。ただ、あちらから見てこちらの芝は青くないらしい。なら、やっぱり、そっちの芝のほうが本当に青いのかもしれない。
そこでふと気づく。
私は臆病。それを認めるのはよい。だけど、そこから何も変えようとせず諦めてしまってたのかな、と。
いや、違うか。そもそも、望みが生じていなかった。変われるなんて、変わろうなんて発想が、初っ端から頭のどこにもなかった。
でも、今で気づいてしまったわけだ。岐路に立つ、というほど真二つに別れる道ではないけれど、これからどうしようか。
というふうに、変わろうか、という話。だけれども、私はこれまでと根っこが変わるという話ではない。それは、その時やりたいようにする、というもの。
だから、臆病に引っ込みたい時には引っ込むのだろう。でも、勇気を出してみたらいいんじゃないかという思いは、発想は、芽生えたのだから、いけるときはいくのかもしれない。
結局その時にできるようにしか、なるようにしかならない、けれど、こうやって、色々な刺激を受けて私の感覚は、自動的な思考は、変わっていくのかなぁと思うのであった。