夢から覚めようか

あきらめようか。ということに、ようやく至った。

この考えをどこまで維持するかはわからないが、自分の中で何かが晴れるような気がしたのは事実である。

目次

第三の選択肢

※筆者は随分の間、無職で半引きこもりの状態。

これまで、選択肢は2つだと思ってきた。学校へ行くか、働くか。

私の中では、夢を追うか、現実を見るか、と言い換えてたりしたが、どちらも現状は夢に過ぎない。

では、現実とは。それが、忘れられていた3つ目の択。無職のままでいる、それを受け入れるというもの。

過去の私はこれを蔑むであろうが、今の私としては、これが最も望ましいように思う。夢を目指した末に、苦悩し自殺しかける、してしまうより、余程いいのではなかろうか。

こんな簡単なことに気づくのに随分と時間をかけたものだ。

もちろん、何もしないのは暇であろうから、なんなり何かはするだろう。だが、そこに背負い込むべき義務ははなく、乗るも降りるも私の勝手。

まあ、生活はしていかなきゃいけないだろうから、そのために働く必要はあるかもしれない。それはいずれ考える必要がある。だが、たいへんありがたいことに、環境には恵まれており、そこまで焦る必要はない。少なくとも、今までのような急き方をする必要はない。

つまり、人生は暇つぶし、ということになるわけだ。

私は一旦、こう在ろうと思う。それぐらいは許されてもいいでしょう?私の人生なんだから。

夢か悪夢か

今回の思考の変化は、親の期待を裏切るものであろう。ただ、それは、そこから自由になるとも言える。期待は夢とも言いかえられるだろう。随分とひどい悪夢だったよ。

以前から薄々気づきつつはあった。

私の夢は親の夢を源流に持っているのではないか?というか、私は自分の夢と親の夢を混同していないか?自分の夢なるものは、実はないのではないか?いい大学に行きたいななんて、それなりの会社に就職したいだなんて、家庭を持ちたいなんて、子孫を残したいなんて、本当に私は望んだか?

ああ、別に誰かを責めたいわけじゃないし、今のところ、誰かを憎めるわけでもないんだけれどね。今更だし。

ただ、しんどかった。そして、それとは決別しようとしている、という、だけの話。

暇つぶしをどうする?:急ぐこたない

ここまでを思い、書いてきて、随分と、心が穏やか、涼やかだ。それと、視界がひらけすぎて、半ば呆然としている。

やるべきことはなくなった。

が、大抵の人と同じように、私も暇を暇のままにしておけるわけではなく。暇なら暇つぶしが要る。

ここからどうしたものか。とりあえずは惰性で動くことにしようと思う。急ぐ必要はなくなったのだから。

そういえば、「幸せ」という曲に関して

※「幸せ」中島みゆき の歌詞に関連して。

幸せになりたいなら、願いごとが叶うか、願いを捨ててしまうか。

そんな歌詞は随分と前から聴き続けてきたのにね。

どちらも贅沢。だけど、志向するのならやはり捨ててしまう方が、ゲームから降りるほうが、いくぶんか楽な気がするね。

でも、そうすると、やっぱり、どうしようか、とはなる。

そこで、幸せになりたいね、と廻り廻るのもまあ、私はいずれなぞるのかもしれないなぁ。

経過観察

内容が内容だったのでこの記事は作成から公開まで2日ほど時間をおいた。せっかくなのでその間の動きについてメモ。

メンタルはこれまでに比べかなり安定。行動はろくなものをしてない。それに対して自分へ不満を抱きかけることはあるが、最終的には概ね「あきらめる」ことができている。逆に言えば、スッパリと自由になれたわけではない。

正直、なにかがあれば、また走り出す可能性はあるのだろうなと思う。それもまた、そういうものだと「あきらめる」のがいいのかもしれない。

目次