憎しみがわからない、他(「GUNSLINGER GIRL」を読んで)

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「GUNSLINGER GIRL」(相田 裕)、マンガの1〜15巻を読んでのメモ。

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憎しみについて

憎しみが自分のものになっていない。と思う。登場人物の感情がどこか他人事だ。

誰かを失うば、思うのだろうか。

そんな経験は欲しくないが。

だから、こうして憎しみを知ることが、憎しみの行く末を想うことが、物語を編み、読むことがいるのか?

批評家にはなれなさそう

感傷。か?

感情を言葉にできない、と感じた。まあ、正直したいかと言われると、そこまでやりたいわけではない。

心が動けば、私にとってはそれで十分。物語を読むのは感想を書くためではない。体験が目的なのだ。

人に伝えるにせよ、ただ、よかった、と言えればいい。

私は批評家にはなれなさそうだ。
というか、キレイに言語化など、しなくなどないとさえ思うくらいである。

書く理由は書くためではなかった

もう読み終えてしまっているのだから、書いても思い出語りにすぎない。

読んでいて感じた鮮烈さ、蠢く思考はもう二度と蘇らない。

それでも、ここに書くのはなぜだろう?

あまりかんがえてなかったが、多分、未来の自分と話すためだ。
結局、何もかも忘れてしまうから、勿体なくて、こうして書いておくのだ。

ふーん。書くことが目的ではなかったのか。と、自分にとっては少し以外だった。

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