好みと正しさ

くらいめの話なので、必要なら避けてくださいまし


正しさの話で捉えてしまうから、私は傷つく。好みの話をしていると思ったほうが楽で居れる。

ということ。

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外へのネガティヴに心を乱す

この一連の文章、というか愚痴?を書いてしまいたくなる流れ。それが生じた点は私の頭では明白にわかっているわけなのだが、まあ、それは置いておくことにしよう。言ったって意味がない。

ちなみに余計だがその点は複数存在する。つまりはありふれた話。

その点の種類については以前から私が苦手としている、話者の外への批判とか否定とか悪口とか、そこらへんのことだ。(基本的に私へ向けられたものではない、と私は認識している)

※批判、否定、悪口、はいずれも別のものではあるが、私がネガティヴな影響を受けるという意味では似たようなものなのでまとめている。

過去にはキレて妙な記事を上げたりしている。情けない。が、まあ、読めばその時私が言いたかったことはわかるし、消すつもりもないが。

※ちなみに私は自分がよくするのもあって、他者の自己嫌悪にはあまりダメージを受けない。そういうのに遭遇した場合にネガティヴなものを受けないとまでは言えないが、空気感に影響を受ける程度で、むしろその他者への心配が生じることのほうが多い。

「期待をしない」の限界

私にとっての問題は、私がその点に影響を受けて心を乱してしまったところにある。

それに対して以前私は「期待をしないこと」によって対処をしようとしていた。

これは、確かに一定範囲の相手に効果を発揮する。期待をしないで済むような人、つまりは、あまり関わりのない人、関わりがあったとしても、もとからそういうことを以前にやっていて私がそれに慣れてしまった人が該当する。

が、その範囲外の相手による言動であったから私は以前ダメージを負って記事を生じさせていた。でもって、今回もまあそれとほぼ同じである。

「好み」にすりかえる

今回はそのダメージからの早期の回復方法として「正しさ」を「好み」にすりかえて考えるということに至った。(気づくのが遅すぎる気はするが。)

批判、否定、悪口には正しさが滲む。私はその話者が期待する相手であったとき、それを可能な限り私自身の中の正しさで内包しようとしてきた。その工程では痛みと疲労が伴う。

だが、今回はそれを放棄することを選択してみた。

批判、否定、悪口の中にあるものを正しさではなく、その話者の好みであると捉え直すことにした。

すると、対立が問題でなくなる。好みというものはそういうものだから。私が好きでも、相手が嫌いということは自然である。

正しさは対立すると衝突するものだが、好みならなんの問題もないのだ。

注意点など

まあ、そう捉え直したとしても「嫌い」というのを大っぴらに言っていることについてはどう掬いあげることもできないが。

そして、これは正しさを一致させたほうが都合がいい相手に対して用いた場合、後のより大きなすれ違いの原因にもなり得る、と思われるので注意したほうがいいかもしれない。

加えて、原因を点(私の他)と見なす場合、これは問題を全く解決しない。その点が生じるところから離れるなりなんなりは、必要ならしなきゃいけないだろうね。

メモ

頭固すぎないか、私。

あと、この文章自体が、嫌いを公言しているものとの自覚はある。あぁ、また愚かなことをしているねぇ。

ん、まあ苦手、と言いかえれば許されるかな?まぁ言葉遊びに過ぎない気もするが。

2026/02/02追記

私の日常が上手く回っていないゆえの過剰反応であった気はする。まぁ、好みに逃がすのは実際悪くないとは思っているが。

-----本記事は以上です-----

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