配信視聴の目的の誤り

誰かに押し付けられた価値観を鵜呑みにするべきではない。配信者もリスナーも、誰もがそれぞれに配信との付き合い方を見つけていくことになる。

それを前提としたうえで、ここでは私と配信の話を書き留めておくことにする。

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誤り

私は、配信という場で出会う人に、人間関係を求めてしまっていた。生じさせることもあったし、実際とは別として、先を思い描いてしまっていたりもした。

それはきっと望ましくない。まあ一般論はどうでもいい。なにより、これは私の視聴している方々の価値観ともそぐわない。私は私の考え方を持っているのだと言えなくもないが、配信視聴とういのは相互により成り立つものだ。そしてその場の主体は配信者側にある。合わないならば視聴側である私は離れるか変わるかであろう。

そう、私の居る配信とは、友だちづくりではないのだ。配信で出会う方というのは、友だちではないのだ。配信者は配信者。リスナーはリスナー。それ以上はなにもない。そう口にした、というより、書いた時、どこか哀しさを感じたから、私は、だめなんだろう。

溜息

どこかで感じていたことでは、あった。私が間違えた、道を踏み誤ったのは。

私はいつも、うらやましがってばかりいた。皆の仲がよさそうに見えて、私はその外側に居るような気がしていた。だから、近づこうとした。

だが、その結果がこれだ。やりばのない感情だけが残り、そんなことは望まれていない、という思い込みの中での相手の拒絶で自分を傷つけた。

これから

こうして、はっきりと気づいてしまった私は、どうすればいいのだろう。

変わることができるだろうか。それとも、私は私、とするのか。

もうぐちゃぐちゃである。ただ、楽しみたかっただけなのに、勝手に苦しんで、馬鹿らしい。投げ出したくはある。

だが、私から配信視聴を取り去った時、日常に他者との関わりはほとんど残らない。それで成立するのだろうか、私の心は。

まあ、なるように、なるだろう。どうにでも、なるだろう。

メモ

ある程度、正しいことを言っているようにも見えるが、負け犬の遠吠えのような気もしないか、これ。

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