「ピエロ covered by かずき」に込めた想いについて。
※本記事における「あなた」は特定の方を指すものであります。ご容赦ください。
※ここでは私が曲の解釈を述べていたりしますが、それは無視されてもいいものです。誰かが、なにかを受け取って、想いを抱いてくれたのであれば、その当人は、それを一番に大事にしてほしいと、私は思います。
序文
この記事はあなたに向けた独白のように書くことにする。
それをブログに出してしまうことは、あなたにとっても、また他の閲覧者にとって失礼に値するかもしれないが、この曲に関して私が想うことのほとんどが、あなた宛てのものであるから、しかたないのである。
あと、ここに書くことをすべてあなたに送りつけるはあまりにもおこがましいというのもある。
それに、この想いの足跡が、誰かになんらかの影響を与えうるかもしれない。
この希望をもたせたのは、他ならぬあなただったりするわけで。だから、なんといいますか、あなたの蒔いた種ということで納得いただけるとありがたい。
あなたの「ピエロ」
この曲は、私にとって、あなたの曲だ。私の曲ではない。
私はこの曲をあなたの配信で初めて聴いた。私は、その時、いろいろとつかれていた、のだと思う。(実はあんまり記憶が鮮明ではない)。ただ、歌詞の全体の意味なんてよくわからないまま、「大丈夫」という言葉の繰り返しに、泣いていた。それだけはよく憶えている。
この経験は私にとって、その時、救ってもらえたということ以上の意味を持った。
というのも、これはおそらく、私が「リアルタイムに歌ってもらえた時に泣いた」という初めての経験だったのだ。
現実世界のライブはあまり経験がないから、そこはきっと別物だろうと思っている。けれど、インターネット上の配信でここまでの感動をもらえるということは私は思っていなかった。
これは、私が、歌うこと意味を考え直すひとつの機会であった。誰かではなくあなたが歌う意味。誰かではなく私が歌う意味。その時にその人にその曲を私が届けることについて。
正直、しっかりと言語化できているわけではない。
ただ、私はかつて、「MVを作ってみたい」という創作願望のみであった。そこから、「何かを想ってもらえたら」というを受け手を意識した考えを持つようになったのは明らかにあなたの歌が契機であったと私は認識している。
曲の解釈と込める想い
私の中で、これがあなたの曲であるということを認めた上で、それでも私がこの曲を歌うに踏み切ったのは。この曲があまりに私の想い、伝えたいことと重なっており、そして、素敵だと感じたからだ。
少女がピエロを救う話。
だが、ピエロと少女を歌い手が演じ分けるようなものになっているというのはとても示唆的であるように感じる。これを私は、歌い手と聞き手はいずれも、つまり、誰もが、少女であり、ピエロたりえるというように解釈できると思っている。時にはわたしがピエロであり、あなたが少女だろう。そして、ある時はあなたがピエロであり、わたしが少女である。
私はあなたに救われた。
そして、私はあなたを救った、わけではなかったかもしれないけど、救いたいと思っていたし、救いたいと思っている。まあ、そこまで、うまくできないかもしれないけれど、応援している。
それは、伝えたかった。
それは、もちろんあなたと私の間だけの話ではなくて、あなたはたくさんの人を救っているだろうし、あなたは誰かに救われていい。私もきっとだれかを救っているだろうし、私はみんなに救われていて、それでいいのだ。
だから自分を誇ってほしい。これは、あなたに伝えたいことでもあり、また、またいずれ苦しむであろう未来の私に贈りたい想いでもある。
そして、それは、あなたでもと私でもない、誰かと誰かとの間でも起こること。みんなが、時には支え、時には支えられ、ということを肯定する、そんな素敵な曲だと、私は思う。
歌みたの意味~2曲目に際して
存在意義
私の1つ目の歌みたはあなたが投稿した歌みたに勇気を受けて動き始めた。途中、あきらめかけたが、そんな時、あなたがまた歌みたを投稿して、私を感動させてくれて、それでやる気を取り戻し、完成させることができた。
そして、その事に感謝する意味も込めて、この2曲目の制作がスタートした。
ミックスの技術書を買ったりもして、自分なりにもがいたつもりではあったが、けれど、やはり、私の歌は、ミックスは、イラストは、動画は、何もかもは、皆に遠く及ばない気がする。
でも、きっと、程度の違いこそあれ、あなたもそのような、「皆と比べて劣るのではないか」という不安はあったのではないかと思う。
そして、自分の作品に自身が持てないという人はたくさんいるのではないかと思う。
だから、作品としての完成度が、あなたより、皆より、明らかに”下”であることにも意味を見いだせる気がした。
「この程度のものでも投稿しててる人がいるのだから、それに比べれば私はまだ、ましだろう」と思ってもらう。とても卑屈だけれど、それだってひとつの立派な存在意義ではあるだろう。
もしそれで、みんながもっと想いを込めた歌みたを自由に発信しやすくなるのなら、それは素晴らしいことだと思うのだ。
※今後品質向上を望まないというわけではないけ。けれど、それがうまくできるとも言い切れない。あと、作品としての質がいいほうが望ましくあるという立場ではある。うーん、なんと言っていいのかわからんけど、まあ、なんとなく感じ取ってほしい。
記念碑として
作品としては劣るかもしれないが、込める想いは確かにあるし、それは勝つものでも負けるものでもなく、ある、ということに意義があるものだ。
自分が幼い頃に描いた絵を、私たちは笑うだろうか?違うはずだ。芸術品として評価し得る域に達せずとも、それに関わった私、親、その時周囲にいた方々にとっては意味があるはず。
同じように、この動画も、作品として劣り、聴くに耐えないものであったとしても、あなたは、これが存在するということに価値を感じてくれるのではないかと思う。
そして、もし、それさえ叶わなかったとしても、私がこの動画に意味を見出す。
自分の作品を自分で聴くのは時に恥ずかしく、時にみじめな気持ちになる。だが、それは作品としての価値においてである。
先に述べたような込めた想いは恥じるようなものではない。無論、気恥ずかしさが生じる日は来るであろう(というかその点はすでに怪しい)。でも、それを愚かであったと言う日がくるとは私は思わない。
目一杯込めた想いは、きっと今この瞬間もだんだんと薄れていっている。けれど、この歌を聴けば、ありのままではなくとも、その時の感動を、感謝を、伝えたかったことがあったということを、思い起こせるのではないかとおもう。
そんな、記憶を蘇らせる、記念碑。それが、私の歌みたの1番の意味なのではないかと思う。