いくつかの独立したメモをまとめて1つの記事にして残すことにした。メモの作成時期と本記事公開タイミングはさして離れておらず、メモ同士の時期もそれほど離れていない。が、内容の一貫性には欠けている。
おおむね配信などでリスナーをしていて、自分の感じたものについて理解しようとした結果生じたもの。まあ、言語化できていない部分も多いが、それも含めて、現状の認識の記録ということで。
ズレについて
ライバーはシステムの前で営利的になるのを求められるが、リスナーの前では営利的でないようにみられることが営利につながるという矛盾した立ち位置になることが往々としてある。
まあ、その矛盾自体は珍しくはない、と思う。あまりに商売っ気溢れすぎている商品が売れない、みたいなこと。
だが配信においてはほかのビジネス以上に、客(リスナー)が、サービス(配信)をビジネスと捉えていない場合や、捉えたくないと感じている時があるだろう。
そして、実際、でビジネスではなく趣味として配信している方が一定数いるというのも、配信をビジネスとして認識することを複雑にしているのではないか。
加えて、その、線引きが当人のなかで曖昧だったり、過去と現在で認識が変わっているというライバーさんもいるだろう。
だから、リスナーはライバーに寄り添えない、というのは言い過ぎだけれども、寄り添おうとするときには、そういった立場からくる見え方のズレは考慮しないと、互いに傷つくことがあるのかもしれない。
蛇足
金銭を得ているというのは、だれかがやりたくないということを代わりにやっている、という側面もあるだろう。というのは言い過ぎだろうか…。
(うまく文章に含められなかったが、走り書きしたもの)
思考の使い方
例えば、配信見ながら「私は客だ」なんて考えていたら配信を心行くまでは楽しめないだろう。また実際、配信側も四六時中ビジネスを意識している訳ではあるまい、楽しい時は楽しんでいるであろう。(まあ、これはそうあって欲しいという私の願望だが。)
というように、どういうときにどういう思考でいるべきかというのはきっとある。がそんなこといちいち考えてられないし、分かっても思考をそう簡単に切り替えられたら苦労はしない。
だから、先に記したような考え方は、トラブルシューティングの手法、くらいでいいんじゃないだろうか。コミュニケーション時などの咄嗟の場ではなく、会話を終えたあとわだかまりがある時などに、相手の主張や態度に対して納得をするために用いるのがまずは無難なのではないかと思う。
このメモの背景
リスナーとライバーの「ライバーの配信目的」の認識のズレが明確にでた場面にであったことから。
揺れについて
少し、困惑した。前との違い?ズレ?
げど、まあ、ゆれることはあるのは仕方ない。ヒトとはそういうもの。
ただ、その時の感覚として、すこし、ざんねんでは、あったか。
いや、ちがうかな、はがゆいというのが近いか?でも、私は上手く出来なかったし、できないから、なんというか、くやしい、というのもあるのか。うらやましいというのもあるのか。私とは醜いな。
私の言葉など、負け犬の遠吠え。ただ、なにに負けたとて、全てにおいて価値がないわけではあるまい。なんなり、やれること、やることはあるのだ。という、この言葉がそれこそ遠吠えに感じてしまう私は、まだ、負け犬気分でいるんだろうね、心の中で。
ーーー
そういや、その点、他方のあそこは楽であろうね。
じゃあ、なぜ?というのはわかりはする。あそこに私は、居れるようで、蚊帳の外という気持ちが拭えないんだろう。入っていけるほどの気概や耐久力は私にはない。
それでいえば、まだ、ある。それに他を探すことだって。
なんなのだろうね。慣れ、惰性。というとネガティブだが、愛着とも言い換えられよう。第一、取っかえ引っ変えの選択肢がある「配信」というのが異常ではあろうて。人と人とのことはそう簡単にゆかないものだろう。
なれば、「配信」というのは実に哀しい、さびしいもののような気も、してしまうのは、私だけだろうか。
補足
「ズレ」は人と人の間だけでなく、一人の中においても、わりあい小さな時間差でも生じる。生じたそれに少し落胆するも、それ以前にそこに至れなかった自分を恥じて、みたいな感じ。
このメモの背景
何気ない発言であっただろうものが、私の中では少し複雑な心境を生じさせたということの記録。先程の「ズレ」に比べると、こちらは状況に波は立たず、私の中でさざなみがおこっただけであった。
求めることについて
これもまた、少しのやりとりが、私に少しのざわめきを生んだことについて。
ーーー
ファンというのは求めていいものなのだろうか。求めてしまう、のはある程度しかたないとて。求めることを自分で認めるのは、なにか違う気もする、私は、だが。
求められるのは、喜びか、負担か、それとも、別の何かか。さじ加減にも、時にも、人にも、よりけりだろう。
私は自分を制しなければ。まあ、そう感じうる時点で、のぞみが生じているのは確かで、求めることができる者に羨ましさを覚えてしまっているのだろうけどね。
我々の距離感は媒体によって異なる。居るところ、居たところ、人によって、ときによって。なんとも、面倒というか、面白いというか、疲れるというか、可能性があるというか。それでいうなら、私はどう分類されるのだろうか。そもそもの素材がなにか異常を持っているような気もする、が。
このメモの背景
リスナーがライバーに”求めた”場面に居合わせて、考えたこと。
動揺について
まだなのに。なぜ、心はゆれるのか。ざわめくのか。
これは、正しいのか?
私は私が何を感じているのかを、正確に把握できていないようだ。だから、よしあしなどわかりようもなく。
どうにも言葉になっていない。言葉にしたくないというのもあるのか。
ただ、いつもと(というほどにいつもがあるわけでもないが、とりあえず)何かが違った、ような気がして、動揺したという事実にも動揺してしまっている。
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(少し時間が空いて。)
言いたくないなどと、わからないなどと、言っていたが、推測はできる。今の私的には、おおむね2つの捉え方があるはず。応援する者として何かを思っているのか。なにかを作る者として何かを思っているのか。混ざって、余計困惑しているのかもしれない。
多分混じってる。でも、これは、望ましいのだろうか。どちらでもあるなら、どちらにも純粋さが失われる。それでいいのか。心の持ちようの話だから、意識してどうこうできる範囲も限られるが。
あー、よくわからない。いったん思考を投げだすことにする。
このメモの背景
私がとある配信者のとあるXでのポストを見たときに生じた心のざわめきについて。